暇つぶしの玄人

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公共論のメモ

公共性について勉強というか調べたことをメモ程度にまとめておきます。とくに住宅の公共性と絡めて。


0. 分類
公共論それ自体が大きなテーマであり、公共性というのが何なのかを考え始めたら、終わりがない。この論ではひとまず、公共性というのが「王権に付随する公共性」から「議論する大衆の公共性」へ、そして今「沈黙する大衆の公共性」へと変化していっているものと考えてみたい。そして、その各々に対応する形で建築を考え、その中で住宅の公共性を見つめてみたい。


1.史的展開
「王権に付随する公共性」とは、強い主権をもった一人の(あるいはごく少数の)人間の生活に関わることが重視された時代の公共性である。すなわち封建制下の政治・文化活動の重要性である。公共的な建築とは王族や貴族の宮殿を意味し、公共事業とは権力者の行動であった。この公共性は一般市民の住宅にはかかわり合いを持たない。住宅とはあくまでも私的な領域であり、建築家の職能領域にも入っていない。建築家は宗教施設や大邸宅、宮殿を設計する存在であり、市井の人の生活に関係するような職業ではなかった。かつての大文字の建築とはこれである。人類の歴史のほとんどの部分をこのような時代が占めている。


ところが、経済活動の活発化で政治的な問題の議論の場で資本家が発言権を持ち始めると、少数の人間の閉じられた世界での対立が大衆の中に広がり始める。より多くの人を巻き込むことで多数派に立とうとする運動が「議論する大衆の公共性」を生み出す。政治史に見ればこれは市民革命へとつながり、民主化というかたちで記述できるであろう。このよう変化は近代の曙にヨーロッパで見られた現象である。

「『公衆(the public)』とは誰であり『公衆の場に(in public)』出たときはどこにいることになるのか、との意識は、パリでもロンドンでも十八世紀初めに拡大した。」*1

ここに到るまでの「王権に付随する古い公共性」が「議論する大衆の公共性」に変質していった様子は、イギリスでの産業革命期の政治的動向を見るとよくわかる。

イギリスでは土地貴族出身の次男三男は急速に富裕な商人の地位に登り、大ブルジョアジーは地所を取得することが多かったので、地主層(landed interest)と商業界(moneyed interest)という伝統的対立はもともと鮮明な階級対立としてきわ立たなかったのであるが、それがいまや新しい利害対立の下積みにされるのである。それは、一方では商業資本及び金融資本の貿易制限的利害関心と、他方ではマニュファクチュア資本及び工業資本の拡張的利害関心との対立である。この葛藤は一八世紀の始めから意識にのぼってくる。それ以来はじめて、商業(commerce)や取引(trade)がもはや製造業(manufacture)や工業(industry)と無造作に同視されなくなる。(中略)この情勢がテュードル王朝時代のように依然として豪商(merchant princes)たちの狭いサークルに限定されていたとすれば、両派が公衆という新しい審判に訴えるという事態には到底ならなかったであろう。けれども資本領域そのものに波及するこの対立は、革命後のイギリスでは、まさに資本主義的生産様式の貫徹にともなって、一層広汎な層をも巻き込んだのである。そしてこれらの層がまもなく、論議する公衆となったのであるから、その時々に劣勢の派が政治的対決を公共圏の中へ持ちこもうと企てたのは、けだし当然の勢いであった。*2

つまり、経済的な利害対立の政治的な解決手段として人間の集団を捉えることがイギリスに於いて大衆の公共性の確立する大きな要因となっていたのである。では、そのとき建築がどう対応していたのか?まず、第一に人びとの考える公共の建築というものが変質していく。王権に付随する施設から、議論する大衆のために用意された場所、すなわち議会、集会所の用な場所が公共の場として認知される。都市の中にあっては、喫茶店や酒場が人が集まり議論する空間を提供した。イギリスのパブがPublic houseを語源とすることなどが直ちに想起される。はじめのうち、議論する大衆のために新しいビルディングタイプが用意することは無かった。会議は宮殿のなかのどこか(たとえばテニス場)でやれば良いのだし、食事をする場所が議論の場所に使い回されれば事足りる。極論すれば建築などなくてもいい。広場はヨーロッパの都市における公共の場であるという認識は「議論する大衆の公共性」である。


しかし、「議論する大衆の公共性」のために人が集まる場所を用意しようとする傾向が高じて建築に変化が訪れる。大衆の意見を造るために、何百から何千、何万の人々を集める大きな空間を作ることが求められ始めたのだ。もちろん、その背後には、経済活動の活発化が工学の発展を促し、鉄の量産化や構造技術の発達につながった事実があった。こういった状況を端的に見て取れるのが万国博覧会である。クリスタルパレスやパリ万博の産業館が好例である。巨大な空間をつくり、多くの人を集めることが公共性であった。議論する大衆は万博に出向き、感想をもち議論した。はじめのうち、巨大空間は工学技術者の問題であったが、建築史の流れの中で大空間は建築の中に回収されていく。今なお、大きなスパンを飛ばすということは建築家の関心事たり得ている。 そして「議論する大衆の公共性」が求めた巨大建築は逆に公共性を変質させていく。あまりにも多くの人が集まる空間は、もはやそれ自体が議論する場ではない。多数の中のひとりになることで、大衆は匿名性を獲得する。そこでは集団の中でむしろ自分の世界を獲得する可能性が生まれる。誰かと意見を言い合うのはむしろ顔見知りのいる私的な領域であり、公共の場では他人との関わり合いを持とうとせず、各人が自由に振舞うことを相互に許し合おうとするような「沈黙する大衆の公共性」が誕生する。多くの人の集まる場所は訴えかける存在ではあり続けているが、もはや議論する場所などではない。都市の広場でも人々は議論に華を咲かせるのではなく、自分のやりたいことをやるようになる。このような状況を生み出した決定的な存在は都市の中の公園であった。公園が本質的に散歩の為につくられ、滞在する場所ではなかったということが大きな要因である。公共の場というのが会話し、情報を交換し、何らかの意思決定を行う場から、個人として振舞う場へと変換する重要な契機が公園にあった。生活環境の改善のために導入された都市内部の公園は、期せずして公共性を転換することになったのである。現在、このような「沈黙する大衆の公共性」が歴然と見られるのは、郊外型のショッピングモールである。郊外のモールでは巨大な空間に人々が集まるが各々の興味に特化して消費活動が行われるようになる。巨大建築の中で大衆は沈黙し語らない。


建築の中では人々は議論しない。しかし大衆の意見というのがなくなったわけではない。雑誌や新聞などのメディアに議論の場所が移ったのである。メディアの発達もまた公共性の変革に加担していく。

大衆紙というものは、主として政治的動機から起こった広汎な大衆層の公衆参加を、商業的な方向へ機能変化させたことにもとづくものである。入場条件の切り下げは、教養水準の実情からいうと、さし当たっては、大衆に公共性へ参加する道をひらく手段にすぎなかった。ところがこの拡張された公共性は、「心理的安直化」の手段が商業的に固定化された消費維持の自己目的となっていくにつれて、その政治的性格を失うのである。*3

公共性が政治的性格を失い、大衆の文化消費へと変化するに連れて、「議論する大衆の公共性」は喪失されていく。


空間のなかに議論する大衆はもはや見えないが、巨大化した消費という力がメディアの中に潜むようになった。彼らに訴えかけるにはどうしたらいいか?未だに巨大建築や表現の手法として有効であろう。とはいえ、誰しもが手がけられるものではない。大きな影響を与える大きな存在を手に入れられない若手や先鋭的な非主流派たちは議論する大衆に訴えるために新たな広告を打つことを考える。住宅である。ニューヨークの近代美術館で行われた近代建築の住宅を中心とする展示を指してビアトリス・コロミーナはいう。

もしもインターナショナル・スタイル展が近代建築のための広告キャンペーンと考えられるなら、この広告は、「芸術を手にできる」公衆よりもっと大きな公衆を狙っていた。つまりデパートの公衆、中流階級、それも主に女性だ。*4

住宅という存在は建築の正統から外れた場所にあったが、モダニストが自分たちの主張を表現する場として大衆の欲望にダイレクトに切り込もうとしたのである。シェルターとしての住宅は人間にとって不可欠な存在である。誰しもが手に入れる消費の対象である。それでいて、建築家にとってみれば、小さくはあるが自分の思想を表現する場所として十分であった。大衆のための住宅を作品に加えるというのは以前の建築界にはない発想だった。建築家たちは大群集をまとめて扱う空間を用意するのではなく、自分たちの意見の広報のために、個々の人間に対して語りかけ始めた。私的な存在であったはずの住宅に真剣に向き合うことで全体の議論の流れを作ろうとしたのである。これは一種のパラドックスであった。住宅建築においては、私的領域に深くコミットすることが多くの人の共感を得ることにつながる。個別化して分解した大衆の声に一つづつ耳を傾け、批評性をもって何かを提示する場所としての住宅。そのような広告としての住宅が可能になった背景には、写真入りの建築雑誌の存在がある。コルビュジェを始めとする住宅に積極的だった建築家は建築写真に意識的であった。実際の建築を体験するという建築の受容から雑誌に掲載された写真による受容へと変化していった。そうなると、建築家は住宅を通して、自らの考えをあまねく世界に広げることができるようになったのである。


また、建築家は住宅の中で社会に対してなんらかの像を提示するために、手段として売れる住宅を作ろうとする。施主の欲望を探りだそうとし、都市の中で彼らが自由に出来る場所としての住宅を作っていく。住宅で人間の欲求と向き合った建築家はその感覚を「議論する大衆」のために作られた巨大な公共空間にさえ持ち出す。ここに来て公共性の転換は決定的になる。「議論する大衆の公共性」とは議論の末に導かれた集団全体が共有可能な目標の追求であった。一方で「沈黙する大衆の公共性」とは一人ひとりの欲求が自由に実現できることである。他人に干渉されることなく自分の望む行動ができる空間が公共空間になる。「誰のものでもない場所」ではなく「誰のものでもある場所」が公共空間なのだ。所有の観点に置き換えるならば、通時的共有が「議論する大衆の公共性」であり、一時的占有が連続する共有が「沈黙する大衆の公共性」である。さらに建築家のキャリアの早い段階が個人住宅の設計を中心とすることでこの傾向は強まり、誰でもアクセス出来る「曖昧な境界」や「開かれた空間」がすり切れるくらい使われるタームになる。

市民的公共性のモデルは公的領域と私的領域とのきびしい分離を基準にしており、そのさい、公衆として集合した私人たちの公共性は、国家を社会の要請と媒介しながらも、それ自身は私的(民間)領域に属していた。しかし公的領域と私的領域の交錯が加わるにつれてこのモデルはもう適用されえなくなる。すなわちそこには、社会学的にも法律学的にも公私のカテゴリーには包摂しきれない特殊な再政治化された社会圏が成立しているのである。*5

もはや公共性は明確に分化された領域では収まらなくなり、空間の再編が始まる。私性を十分に満足させることが公共性となる複雑な状況が進行している。







「曖昧な境界」とかを公共性の転換から考えたところが牽強付会な気もしますが、「沈黙する大衆の公共」は考えるべき問題かと思います。

*1:リチャード・セネット『公共性の喪失』晶文社 1991年 初版 p34

*2:ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』1994年第二版pp86-87

*3:同上p225

*4:ビアトリス・コロミーナ 松畑強訳『マスメディアとしての近代建築、アドルフ・ロースル・コルビュジエ鹿島出版会1996年 p136

*5:ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』1994年第二版p232