暇つぶしの玄人

読書の記録、雑記、日常の買い物

レイナー・バンハム『環境としての建築』

レイナー・バンハムの『環境としての建築』をしばらく前に読みましたので、感想とレジュメの一部を。
本当はダイアグラムや各章の詳解があるのですが割愛しました。

 

バンハムがこの本を書いたモチベーションは明らかに、環境制御装置(特にパワーを用いる空気調和)が建築史のなかで無視されている事への不満である。このことが1章の「不当な弁明」でギーディオンを含む先行研究を批判しながら表明されている。
2章以降を読んでいく際の軸として


        構造 → パワー

アメリカ(合理主義) v.s ヨーロッパ(合理趣味)

 

がある。バンハムは構造の側に偏重し、パワーを完全に無視してきた既往の建築史研究を批判するとともに、設計においてパワーを正当に取り扱ってきたアメリカの建築を評価し、欺瞞に満ちたヨーロッパの建築家たちを批判しているのである。構造中心からパワーを含んだものへと言う流れとアメリカ対ヨーロッパの対立がこの論考の構成になっている。そして今後の展望を12章で述べて終わっている。


バンハムの歴史観を要約すれば

  • 構造を主体として歴史は書かれ、設計活動がなされてきたが、実際には常にパワーが存在していた
  • 構造からパワーへが大きな流れである
  • ヨーロッパのモダニズムはガラスの箱を通して重い構造からの解放を主張したが、それには不可避的にパワーによる環境制御の技術が必要だった
  • パワーを利用した環境技術はアメリカで発達し、ようやく構造という底荷から建築を最終的に解放するにいたり、いまや建築は地域性からも完全に自由である
  • 構造からは自由になったが、今度はパワーに屈従した建築が創られなくてはいけない


となる。


 本書の功績は、間違いなく環境としての建築を1960年代にあって提起したことにある。驚くべきことに、地球温暖化や異常気象に関する議論は言うまでもなくオイルショックよりもさらに前である。『第一機械時代の理論とデザイン』から続けて書かれた本書は、ヨーロッパ・モダニズムの相対化がさらに推し進められていると同時に、環境建築史の嚆矢であり、それまでの建築史に一石を投じている。


 しかし、執筆時期の時代背景は先進性と同時に限界も意味している。


 本書の中でのバンハムの歴史観は上で挙げているように構造からパワーへと言う流れなのだが、そこにはエネルギー消費の問題は出てこない。環境制御の問題は現代では室内環境を向上することと同時に、地球環境負荷の問題も扱われるのが当然と成っている。バンハムはこの点、経済性が劣る程度の感覚しか持っておらず、十分な資金さえあればよいと言う判断に終わってしまっている。


 基本的には、構造とパワーは相互に協力しているという考えに基づいており、必ずしもパワーのみに頼って環境制御をしようという提案ではない。だが、全体を通して、近代建築が生み出した軽い皮膜の構造を、アメリカが生み出したパワーの技術で解決するという流れが強く、のちのバンハムの著書でアメリカを中心に取り上げていくことからパワーによる環境技術礼賛の感が拭えない。


 もし現在、この論考に続編を書くとしたら構造からパワーの図式に地球環境問題という要素が流入し、再び構造に期待する建築が必然になるという記述になるであろう。パッシブデザインの議論やダブルスキンの研究にもっと紙幅がさかれなくてはなるまい。バンハムが1988年まで生きていて、” The architecture of the well-tempered Environment” の第二版が1984年出版であることを考えると、そちらでは扱われているのかもしれないが本が手に入らず確認出来ていない。もっとも、彼の興味の方向性がポップカルチャーに流れたのであれば環境技術に関する記述の充実を期待することは難しいだろう。


 もし仮にバンハム的な手法で現代の視点から環境建築史を描くのであれば、本書でアメリカの果たした役割が(日本を含めて)暑い地域に担わされるべきである。なぜなら、過去において暖房が主要なテーマだったのに対してガラスの摩天楼の事務所建築に代表される建物は冷房が消費エネルギーの多くを占め、空気調和の主眼が暑さにあるからだ。本書でも冷房は取り上げられているが、より発展的には砂漠地帯や亜熱帯での環境制御の技術開発が参照されるべきだろう。最終章でちらりと触れられるだけの熱帯や温帯の建築が詳察されることでこの研究は発展しうる。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


20130619追記

再版が出たようです。