暇つぶしの玄人

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続『テクトニック・カルチャー』

テクトニック・カルチャーを読み終わったのでレジュメと感想を。

「様式から空間」という視点から近代建築を論じた過去の論考を踏まえてから、その次のステップとして結構が導入される。

本書の研究は空間に与えられている重要性を中和するとともに豊かにすることを目論んでいる。それも空間が成就するために必要とされる構法や構造のあり方を再吟味することによってである。ただしもちろん単に構法上の技術を明らかにしたいのではなく、その表現が潜在的に持っているものについて明らかにしてみたいのである結構的なるものが構法の詩学に値する限りそれは芸術だが、しかしながらここで芸術的次元とは具象とか抽象を意味しているわけではない。ここで意図していることは建物とは地上に建てられる以上視覚的で遠近法的であるともに、本来的に構法的で触覚的たらざるを得ないのであり、なおかつこうした属性のどれ一つとして空間性を否定するわけでもないとうことである。(p14)

まず、イギリス・フランスでのグレコ・ゴシックとネオ・ゴシックにおいて、様式建築から結構的な近代建築へと至る萌芽をヴィオレ・ル・デュクやショワジーの中に見る。後、ドイツのゼンパー以降(オットー・ヴァークナー、ゲオルク・ハウザー)から結構の登場を示し、以下、ライト、ペレ、ミース、カーン、ウツソン、スカルパと結構的な要素が重要な作家を論じ、漏れてしまった作家(ベルラーへ、アアルトほか)は結語で触れ、最終的にフランプトンは現代の建築を取り囲む状況を示す。

かつてないほどにいまや世界を商品化しつつある資本主義の攻勢の肥大化に抵抗しているのは、この次元【結構】なのである。(p503【】内はわたくしによります)

まず第一に空間と結構術の学知としての建設の技芸を建築家が統御することがはっきりと必要なのだということであり、そして第二に潜在的な建て主を教育し、感化するのも同じように差し迫った要請であり、なぜなら後期資本主義の「スペキュタキュラー」な性質から察して、啓発された建て主なしには重要な文化的事業は将来においてほとんどなし得ないだろうからである。(p512)

全体を通して大量の文献が引用され、記述も必ずしも構法や結構に関することのみならず美学的な観点も含んでいる。しかし、一貫して、結構が建築家の大きな関心事であったことを示すために作家論が書かれており、各々の建築家を明らかにするという意図は第一義的なものではない。フランプトンが本書を書いた大きなモチベーションは何かといえば、おそらく、消費されるイメージとして価値を低下させつつある建築の、物質性を今一度確認してから、表象の次元に昇華させたいという感情であろう。
とはいえ、抽象的な空間性が強調されてきた建築論において(例えばミースが建材の規格に注意深く設計を行っていたという指摘)は個々の建築家の認識を変革するものでもある。
また、時代的な背景として、ポストモダンの晦渋で韜晦に満ちた言説に惑わされた軽佻浮薄な建築に今一度ハードボイルドな建物の強さを取り戻したいと言う喝のようにも思える。

圧倒的なパワーで書かれている印象があった。
空間、空間と言いたがるが、その空間を創る結構の技芸なくして

豊かな空間などない。



ポストモダンから一周りしていますが、
不抜けた建築野郎は喝を入れられて、
背筋を正して設計に打ち込もうと思いました。