暇つぶしの玄人

読書の記録、雑記、日常の買い物

調査などの個人的なメモ

下記はあくまで私的なメモ。内容の誤謬や発言の委細が実際と齟齬があるかもしれないので参考までにご笑覧頂きたい。敬称は略。


5/27 仙台
東北大学にて五十嵐太郎からレクチャーを受ける。五十嵐が見てきた地域の写真をスライドショーしながら各地域の特徴などを説明していただく。


今回の地震の建物被害は振動の入力によるものよりも津波の破壊のほうがはるかに大きく、また、津波の被害は局所的な偏りが大きいということを確認する。要約してしまうと伝わりにくいが、個別の地域の地形的な条件や社会的、歴史的な条件が被害の違いに繋がっていることが詳らかになった。(詳細後述)


その後メディアテークに移動し、帰心の会の座談会。


東北大の小野田泰明がモデレータをし、Archi+Aidの説明や、帰心の会の成立経緯から話が始まる。帰心の会はトップダウン型の計画を提示するのではなく、「違いのある人間が話しあうことで気づく」「ギャップの中から反省する」ための枠組みであるということが語られる。それゆえ五人の興味も意見も必ずしも統一されていない。伊東豊雄はみんなの家を仮設住宅に加えるという提案をし、山本理顕は住宅供給の方法がそもそもよくなかったという事実が仮設住宅という場で発現したと指摘する。山本のこれまでの地域社会圏をめぐる一連の発言や活動から連続する指摘で「提案よりは考えるきっかけを出したい。これから先、何十年も考えるべきことが、いま緊急の課題として出ている」と主張している。


今回の座談会で特徴的だったのが、問題だらけの仮設住宅の建設や復興計画を否定するのではなく伊東豊雄の言葉で言うところの「大きな歯車のなかに建築家の出来ることを取り入れていく」というスタンスである。政治主体で次々建設されていく仮設住宅をなじるのではなく、たとえば「そこにテーブルを置くこと」(妹島和世)を提案するような方法を建築家が探っていることに注目したい。


また、小野田が冒頭で指摘したのだが、華麗なる解決策で全ての地域が復興できるという「後藤新平シンドローム」に陥らずに議論してくことが今回の災害では重要である。


建築家の関わり方、方策の立て方の特徴が非常に重要で、内藤廣が「災害の個別性が大きく、上位自治体は各地域がどのようなvisionをもっていて、そのためにどうしたいのかという要望が上がってくるのを待っている」と訴えていた。会場から小渕祐介が「(社会制度の)歯車はこれから変わっていくのか、それとも変わらないのか、歯車の中に何か入れていくことで全く違うところへ行くのか?」という疑問を呈するとそれに応える形で隈研吾が「経済的にも(社会制度の大枠という)歯車よりは部分が支配的な時代になっている。もやもやしたものから全体が出来上がる再帰的(recursive)な考えをもつべきで、中央官庁の自信喪失を積極的に利用すべきではないか。」とすこし大胆な発言をした。
帰心の会は設立趣旨に則り、様々な話題が出ていたのだが、被害の個別性から小さな対応で全体像が出てくるという考えは個人的には腑に落ちるものだった。


また、きわめて個人的な感想だが、震災以前には強い社会性とリアリティを感じていた山本理顕がすこし抽象的すぎる印象を受けた。東京大都市圏における居住の問題を考える時には山本の思想や発言はものすごくしっくり来るのだが、今回はカミソリ一枚で地に足がつかない印象があった。(この話は深入りすると終わらなくなるのでこの程度に。)


5/28 石巻 女川 南三陸町
実際に津波で建物被害が大きい地域を調査した。
内陸側からアプローチすると、予想外に高いところから泥の跡が出始める。そして海に近づくとただひたすら茫漠と瓦礫の広がる世界になる。ホコリ、泥、魚や海藻の混ざった独特な臭がする。この臭気は地域によって微妙に異なる。雨で濡れていたので乾燥している日はまた違う臭がするのかもしれない。どこも大きな道は砂利を敷いて簡易な舗装がされてその脇に電信柱が並んでいる。「近代国家の成立において軍隊による交通網と通信網の整備が重要であった」という大学時代に受講した小森陽一の講義をふと思い出す。自衛隊が作業していたからかもしれない。


石巻はポツポツと鉄骨の建物が骨組みだけ残されていたりする。隣の建物などの影響があり、どういう建物が残るのかという法則はない。すこし不可解なというか違和感のようなものを受ける残り方だった。電柱が折れているのが無残。RCが折れる水の力を想像してゾッとする。


女川はRC造の建物が引き抜き抵抗杭ごと根こそぎになっている衝撃的な地域だった。五十嵐によれば原発マネーでRC箱物が多く存在した影響も考えられるようだが、木造が押し流されるのとは違い、RCが転倒させられるというのはもはや建物的な解決が何も無いのではないかという気持ちになる。妹島和世の「水がそう在りたいという形に戻っているとも考えられる」という前日の発言を思い出す。


南三陸町では津波マンション(松原)を確認する。これは実際に役に立っている。だから女川の例をもって全てを否定することはできないのだ。地盤沈下で低くなったガードレールに気づかず同行者が車をすってしまうというアクシデントが起こる。自走可能な程度。


5/29 気仙沼 陸前高田
火災の映像が繰り返し流された気仙沼だが、全域が燃えたわけではない。まばらに家屋が残る地域と船が上流まで乗り上げている場所、焼け焦げた跡、気仙沼の歩いて移動できる範囲にさえ様々な場所がある。住人の方に許可をもらって仮設住宅と避難所を見せていただく。仮設住宅は場所によって全く異なるのだということを住民の方が主張していたのが印象に残る。(一箇所だけ形式的に視察して、全てに一律の計画を下す”お役所”的な何かを想像したのかもしれない、というのは勘ぐり過ぎだろうか。)避難所に比べれば仮設でも入れるのは幸せだという話と、仮設住宅の抽選に当たっても事情があって入れないこともあるのだという話を聞く。津波地震と違って何も残さず流してしまうから、本当に着のみ気のままになってしまうのだ。


陸前高田は恐ろしく平たかった。瓦礫の片付けがされたせいもあるのだろうが広大な平地が広がっていて、所々うず高く瓦礫の山ができている。RCの建物なり鉄骨の骨だけでも点在していれば街があったことをすぐに理解できるがここは地図で家があったところも真平らになっていた。車の残骸だけを集めた場所は異様だった。また、海岸沿いにあった野球場が海に沈み、海岸線が変化しているのがよくわかった。今回見て回った中では一番非現実的な光景に見えて、いったい自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。




以上は覚え書き程度で、細々と色々なことをもっと見ているのだが体系的に書けそうもないので、ひとまず筆を置く。