暇つぶしの玄人

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ドラッカーの『マネジメント』

高校野球のマネージャーも読むとてドラッカーの『マネジメント』を読んでいる。

 

 

エッセンシャル版とあるように、もともとは上中下の三部作になっている。

 

 

エッセンシャル版だからなのか、抽象度がやや高く、しいたけ占いよろしく「何か言っているんだけど何を言っているのかはよくわからない」というような印象。

 

実際に読む前に想像していたものと違い、経営という意味でのマネジメントに加えてより広い範囲での社会をどうマネジメントするか?というような議論も扱われているのが意外だった。

 

ドラッカー自身の経験から経営のために大切なことをまとめているので箴言集のような印象を受ける。

 

もちろん実例(デュポン、IBMドイツ銀行といった企業でのエピソード)を交えてはいるのだが、「おじいちゃんから孫に伝えたい大切なこと」みたいなものがコアにある気がする。

 

一例を引きたい

知識もさしてなく、仕事ぶりもお粗末であって判断力や行動力が欠如していても、マネージャーとして無害なことがある。しかし、いかに知識があり、聡明であって上手に仕事をこなしても、真摯さに欠けていては組織を破壊する。

ドラッカー『マネジメント』エッセンシャル版p148 )

 

結構大胆な断言ではないか。

 

しばしばプレーヤーとして優秀なこととマネジメントとして優秀なことは違うとはいうが、仕事ぶりがお粗末だと普通は害をなすと思ってしまう。

 

もともと、この本を読もうと思ったのは、会社員生活の中で「パーパス経営だとかMVVみたいな昨今の経営者が経営計画の際に考えることの源流にはドラッカー経営学がある」と聞いたので深い理解のために原典をあたりたいという動機だった。

 

 

 

たしかに『マネジメント』は、企業の中で会計的目標ではなく志のようなものを重視する姿勢を示しているものとして古典的な著作であり、はっとさせられるような文言が次々と出てくるが「なぜそうするとマネジメント(経営)がうまくいくのか?」はあまり教えてくれない。

 

ドラッカーの著作は素読はすぐできるかもしれないが、本当の意味で理解するためには、言葉を受け止めたうえで自分の平素の仕事の鑑として照らし合わせる必要があるようだ。

 

時間を空けて再読したり、構成の図解などを試みようと思う。

 

とりあえず今日はここまで。

論文を読む

スタジオの課題に参考資料としてあげられている論文を少しずつ読んでいる。


知らない名前の著者も多い。
もちろん名前を知っているスタン・アレンやクリストファー・アレグザンダーなども入っている。



仮にも所属が意匠系なのであまり大きな声では言えないけれど、
日本の意匠系論文は感覚的で、ある種の耽溺のようなものがにじむ気持ち悪さゆえに好きになれない。




計画か歴史に立脚しないと説得力がないように感じる。


ただ計画系の論文はなぜか興味がわきにくいので歴史系論文ばかり読むことになっていた。


修論をまとめなくてはいけないというセコイ理由もあって、
どういう形で意匠論を書けば有意義か考えないといけない。


それにしてもチュミは刺激的な理論で一世を風靡したのに今は…
このへんも考えなくてはいけないと思う。

アルゴリズムとコンピューテーション

最近考えてることのメモ

いずれ論文にしたいけど今はブログの中に。



なぜアルゴリズミックデザインはしばしばコンピューテーションを伴うのか?
本質的にアルゴリズミックであることはコンピューテーショナルであることを要求(或いは親和的に希求)するのか?



アルゴリズミックであるということは式(数式という意味ではなくてもっと大きく手続きの方式)を明確に示しているということ。


式を示さなくてもアウトプットのデザインは出てくる。

敢えて式を示した場合、そのメリットを考える。

  1. どのようなパラメーターを拾ってアウトプットを変化させているのか明快になる(デザインの主たる問題意識はどこにあるのか?)。
  2. パラメータの値のみが変化するならば同じ式を異なる境界条件で用いることで効率的なデザインが可能。


コンピューテーションのメリットは何か?

  1. 人為的には不可能な量の数値計算が可能。

ただしこれには条件があって複雑な論理よりも単純な論理の多数回繰り返しを好む*

アルゴリズミックであることのメリット1のために設計手法に用いる論理式を明快にする行為は結果的にコンピューテーションのアドバンテージを生む条件(*)と一致するのではないか?

調査などの個人的なメモ

下記はあくまで私的なメモ。内容の誤謬や発言の委細が実際と齟齬があるかもしれないので参考までにご笑覧頂きたい。敬称は略。


5/27 仙台
東北大学にて五十嵐太郎からレクチャーを受ける。五十嵐が見てきた地域の写真をスライドショーしながら各地域の特徴などを説明していただく。


今回の地震の建物被害は振動の入力によるものよりも津波の破壊のほうがはるかに大きく、また、津波の被害は局所的な偏りが大きいということを確認する。要約してしまうと伝わりにくいが、個別の地域の地形的な条件や社会的、歴史的な条件が被害の違いに繋がっていることが詳らかになった。(詳細後述)


その後メディアテークに移動し、帰心の会の座談会。


東北大の小野田泰明がモデレータをし、Archi+Aidの説明や、帰心の会の成立経緯から話が始まる。帰心の会はトップダウン型の計画を提示するのではなく、「違いのある人間が話しあうことで気づく」「ギャップの中から反省する」ための枠組みであるということが語られる。それゆえ五人の興味も意見も必ずしも統一されていない。伊東豊雄はみんなの家を仮設住宅に加えるという提案をし、山本理顕は住宅供給の方法がそもそもよくなかったという事実が仮設住宅という場で発現したと指摘する。山本のこれまでの地域社会圏をめぐる一連の発言や活動から連続する指摘で「提案よりは考えるきっかけを出したい。これから先、何十年も考えるべきことが、いま緊急の課題として出ている」と主張している。


今回の座談会で特徴的だったのが、問題だらけの仮設住宅の建設や復興計画を否定するのではなく伊東豊雄の言葉で言うところの「大きな歯車のなかに建築家の出来ることを取り入れていく」というスタンスである。政治主体で次々建設されていく仮設住宅をなじるのではなく、たとえば「そこにテーブルを置くこと」(妹島和世)を提案するような方法を建築家が探っていることに注目したい。


また、小野田が冒頭で指摘したのだが、華麗なる解決策で全ての地域が復興できるという「後藤新平シンドローム」に陥らずに議論してくことが今回の災害では重要である。


建築家の関わり方、方策の立て方の特徴が非常に重要で、内藤廣が「災害の個別性が大きく、上位自治体は各地域がどのようなvisionをもっていて、そのためにどうしたいのかという要望が上がってくるのを待っている」と訴えていた。会場から小渕祐介が「(社会制度の)歯車はこれから変わっていくのか、それとも変わらないのか、歯車の中に何か入れていくことで全く違うところへ行くのか?」という疑問を呈するとそれに応える形で隈研吾が「経済的にも(社会制度の大枠という)歯車よりは部分が支配的な時代になっている。もやもやしたものから全体が出来上がる再帰的(recursive)な考えをもつべきで、中央官庁の自信喪失を積極的に利用すべきではないか。」とすこし大胆な発言をした。
帰心の会は設立趣旨に則り、様々な話題が出ていたのだが、被害の個別性から小さな対応で全体像が出てくるという考えは個人的には腑に落ちるものだった。


また、きわめて個人的な感想だが、震災以前には強い社会性とリアリティを感じていた山本理顕がすこし抽象的すぎる印象を受けた。東京大都市圏における居住の問題を考える時には山本の思想や発言はものすごくしっくり来るのだが、今回はカミソリ一枚で地に足がつかない印象があった。(この話は深入りすると終わらなくなるのでこの程度に。)


5/28 石巻 女川 南三陸町
実際に津波で建物被害が大きい地域を調査した。
内陸側からアプローチすると、予想外に高いところから泥の跡が出始める。そして海に近づくとただひたすら茫漠と瓦礫の広がる世界になる。ホコリ、泥、魚や海藻の混ざった独特な臭がする。この臭気は地域によって微妙に異なる。雨で濡れていたので乾燥している日はまた違う臭がするのかもしれない。どこも大きな道は砂利を敷いて簡易な舗装がされてその脇に電信柱が並んでいる。「近代国家の成立において軍隊による交通網と通信網の整備が重要であった」という大学時代に受講した小森陽一の講義をふと思い出す。自衛隊が作業していたからかもしれない。


石巻はポツポツと鉄骨の建物が骨組みだけ残されていたりする。隣の建物などの影響があり、どういう建物が残るのかという法則はない。すこし不可解なというか違和感のようなものを受ける残り方だった。電柱が折れているのが無残。RCが折れる水の力を想像してゾッとする。


女川はRC造の建物が引き抜き抵抗杭ごと根こそぎになっている衝撃的な地域だった。五十嵐によれば原発マネーでRC箱物が多く存在した影響も考えられるようだが、木造が押し流されるのとは違い、RCが転倒させられるというのはもはや建物的な解決が何も無いのではないかという気持ちになる。妹島和世の「水がそう在りたいという形に戻っているとも考えられる」という前日の発言を思い出す。


南三陸町では津波マンション(松原)を確認する。これは実際に役に立っている。だから女川の例をもって全てを否定することはできないのだ。地盤沈下で低くなったガードレールに気づかず同行者が車をすってしまうというアクシデントが起こる。自走可能な程度。


5/29 気仙沼 陸前高田
火災の映像が繰り返し流された気仙沼だが、全域が燃えたわけではない。まばらに家屋が残る地域と船が上流まで乗り上げている場所、焼け焦げた跡、気仙沼の歩いて移動できる範囲にさえ様々な場所がある。住人の方に許可をもらって仮設住宅と避難所を見せていただく。仮設住宅は場所によって全く異なるのだということを住民の方が主張していたのが印象に残る。(一箇所だけ形式的に視察して、全てに一律の計画を下す”お役所”的な何かを想像したのかもしれない、というのは勘ぐり過ぎだろうか。)避難所に比べれば仮設でも入れるのは幸せだという話と、仮設住宅の抽選に当たっても事情があって入れないこともあるのだという話を聞く。津波地震と違って何も残さず流してしまうから、本当に着のみ気のままになってしまうのだ。


陸前高田は恐ろしく平たかった。瓦礫の片付けがされたせいもあるのだろうが広大な平地が広がっていて、所々うず高く瓦礫の山ができている。RCの建物なり鉄骨の骨だけでも点在していれば街があったことをすぐに理解できるがここは地図で家があったところも真平らになっていた。車の残骸だけを集めた場所は異様だった。また、海岸沿いにあった野球場が海に沈み、海岸線が変化しているのがよくわかった。今回見て回った中では一番非現実的な光景に見えて、いったい自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。




以上は覚え書き程度で、細々と色々なことをもっと見ているのだが体系的に書けそうもないので、ひとまず筆を置く。

隈研吾『10宅論』

表題の文庫本を読んだので簡単にレビューします。

 

隈研吾氏の住宅に関する割合と短い文章。

今回は精読というよりも一旦素読してみたのですが、文章構成は単純です。

はじめに→分類ゲームの前提→各論→あとがき→文庫版あとがき


というような流れで、タイトルのまま10種類の住宅(の類型)について論じています。各論で挙げられているのは有名建築かというとそうではなく、類型の代表として匿名のプランや坪単価(!)はたまた住所(!?)が示されているのです。架空のものなのか、実在のものを名前を伏せているのかは不明です。これらはそれぞれ名前がつけられていますが、名前の付け方は統一されておらず、モデルとなった空間の名前(カフェバー派や料亭派)がついていたり、不動産的な分類(ワンルームマンション派や建売住宅派)だったりとバラバラです。まずここに注目したい。


10の分類に何か基準があれば統一的な名前を各派に付けるでしょう。例えば構造種別で住宅を分ければ鉄骨、鉄筋コンクリート、木造、その他に分けられるというよう。これは非常に受け入れやすい。しかし本書はそうではない。なぜか?

 

なぜ10コなのか。これといった理由はない。11コでも20コでも別に構わないし、すぐさまそのように分類し直すことも可能である。

(文庫版1990年初版2007年第5刷p.11)


それでは分類する意味がないではないか!とも思ってしまったのですが、この本を書いたモチベーションを考えると、ある仮説が浮かびます。

 


建築家として住宅を設計するに当たり、クライアントの住宅への欲望を類型化することで、住宅の設計に大まかな方向性を与えようとしていたという仮説。

 


つまり、住宅の設計で、まず10類型のどれにあてはまるか考え、用意されているオーセンティックなプランを参考にして考えるためにこの類型を作った。この手法であれば設計の初期の段階を非常に効率的にできるのではないでしょうか。


実際に隈事務所がこういうスタイルで設計しているのかは知りませんが、あとがきや文庫版あとがきを読むと住宅にどのような欲望が向けられているのか10個の階級を「でっちあげ」ようとした試みであるとは言明されています。そんなことを建築家がやるとしたら設計のリサーチ手法だと考えるのが自然でしょう。

 

しかし、この文章は平明であるにも関わらず多層的で、読み方はこれだけにとどまりません。


1986年に書かれ1990年に加筆されたこの文章には「表徴」や「象徴」、「記号」という単語が繰り返しでてきます。時代性を感じて「古い!」と思った点でもありますが、「記号論の先端から、現象学的方法まで見通しているという不思議な書物」*1というのも事実です。住宅を何かの象徴として捉える見方が非常に強く、それぞれの住宅類型が参照しているものが記述されます。そしてそのような記号性をあたえる文脈のような「場所」なるものとして各派が存在しているという説明がなされます。この住宅という記号に意味を与える場所に対する考察が(近代合理主義への批判とからめて)なされる歴史的家屋派の章が他の章で記述されてきたことの総括になっていると言えます。


建築のデザインの観点からは離れますが日本における意味論として面白い本かもしれません。建築思想や設計時に考えていることが述べられる本とは違い、こういう建築書もあるのか…とおもった一冊でした。

*1:同書解説 p.225

公共論のメモ

公共性について勉強というか調べたことをメモ程度にまとめておきます。とくに住宅の公共性と絡めて。


0. 分類
公共論それ自体が大きなテーマであり、公共性というのが何なのかを考え始めたら、終わりがない。この論ではひとまず、公共性というのが「王権に付随する公共性」から「議論する大衆の公共性」へ、そして今「沈黙する大衆の公共性」へと変化していっているものと考えてみたい。そして、その各々に対応する形で建築を考え、その中で住宅の公共性を見つめてみたい。


1.史的展開
「王権に付随する公共性」とは、強い主権をもった一人の(あるいはごく少数の)人間の生活に関わることが重視された時代の公共性である。すなわち封建制下の政治・文化活動の重要性である。公共的な建築とは王族や貴族の宮殿を意味し、公共事業とは権力者の行動であった。この公共性は一般市民の住宅にはかかわり合いを持たない。住宅とはあくまでも私的な領域であり、建築家の職能領域にも入っていない。建築家は宗教施設や大邸宅、宮殿を設計する存在であり、市井の人の生活に関係するような職業ではなかった。かつての大文字の建築とはこれである。人類の歴史のほとんどの部分をこのような時代が占めている。


ところが、経済活動の活発化で政治的な問題の議論の場で資本家が発言権を持ち始めると、少数の人間の閉じられた世界での対立が大衆の中に広がり始める。より多くの人を巻き込むことで多数派に立とうとする運動が「議論する大衆の公共性」を生み出す。政治史に見ればこれは市民革命へとつながり、民主化というかたちで記述できるであろう。このよう変化は近代の曙にヨーロッパで見られた現象である。

「『公衆(the public)』とは誰であり『公衆の場に(in public)』出たときはどこにいることになるのか、との意識は、パリでもロンドンでも十八世紀初めに拡大した。」*1

ここに到るまでの「王権に付随する古い公共性」が「議論する大衆の公共性」に変質していった様子は、イギリスでの産業革命期の政治的動向を見るとよくわかる。

イギリスでは土地貴族出身の次男三男は急速に富裕な商人の地位に登り、大ブルジョアジーは地所を取得することが多かったので、地主層(landed interest)と商業界(moneyed interest)という伝統的対立はもともと鮮明な階級対立としてきわ立たなかったのであるが、それがいまや新しい利害対立の下積みにされるのである。それは、一方では商業資本及び金融資本の貿易制限的利害関心と、他方ではマニュファクチュア資本及び工業資本の拡張的利害関心との対立である。この葛藤は一八世紀の始めから意識にのぼってくる。それ以来はじめて、商業(commerce)や取引(trade)がもはや製造業(manufacture)や工業(industry)と無造作に同視されなくなる。(中略)この情勢がテュードル王朝時代のように依然として豪商(merchant princes)たちの狭いサークルに限定されていたとすれば、両派が公衆という新しい審判に訴えるという事態には到底ならなかったであろう。けれども資本領域そのものに波及するこの対立は、革命後のイギリスでは、まさに資本主義的生産様式の貫徹にともなって、一層広汎な層をも巻き込んだのである。そしてこれらの層がまもなく、論議する公衆となったのであるから、その時々に劣勢の派が政治的対決を公共圏の中へ持ちこもうと企てたのは、けだし当然の勢いであった。*2

つまり、経済的な利害対立の政治的な解決手段として人間の集団を捉えることがイギリスに於いて大衆の公共性の確立する大きな要因となっていたのである。では、そのとき建築がどう対応していたのか?まず、第一に人びとの考える公共の建築というものが変質していく。王権に付随する施設から、議論する大衆のために用意された場所、すなわち議会、集会所の用な場所が公共の場として認知される。都市の中にあっては、喫茶店や酒場が人が集まり議論する空間を提供した。イギリスのパブがPublic houseを語源とすることなどが直ちに想起される。はじめのうち、議論する大衆のために新しいビルディングタイプが用意することは無かった。会議は宮殿のなかのどこか(たとえばテニス場)でやれば良いのだし、食事をする場所が議論の場所に使い回されれば事足りる。極論すれば建築などなくてもいい。広場はヨーロッパの都市における公共の場であるという認識は「議論する大衆の公共性」である。


しかし、「議論する大衆の公共性」のために人が集まる場所を用意しようとする傾向が高じて建築に変化が訪れる。大衆の意見を造るために、何百から何千、何万の人々を集める大きな空間を作ることが求められ始めたのだ。もちろん、その背後には、経済活動の活発化が工学の発展を促し、鉄の量産化や構造技術の発達につながった事実があった。こういった状況を端的に見て取れるのが万国博覧会である。クリスタルパレスやパリ万博の産業館が好例である。巨大な空間をつくり、多くの人を集めることが公共性であった。議論する大衆は万博に出向き、感想をもち議論した。はじめのうち、巨大空間は工学技術者の問題であったが、建築史の流れの中で大空間は建築の中に回収されていく。今なお、大きなスパンを飛ばすということは建築家の関心事たり得ている。 そして「議論する大衆の公共性」が求めた巨大建築は逆に公共性を変質させていく。あまりにも多くの人が集まる空間は、もはやそれ自体が議論する場ではない。多数の中のひとりになることで、大衆は匿名性を獲得する。そこでは集団の中でむしろ自分の世界を獲得する可能性が生まれる。誰かと意見を言い合うのはむしろ顔見知りのいる私的な領域であり、公共の場では他人との関わり合いを持とうとせず、各人が自由に振舞うことを相互に許し合おうとするような「沈黙する大衆の公共性」が誕生する。多くの人の集まる場所は訴えかける存在ではあり続けているが、もはや議論する場所などではない。都市の広場でも人々は議論に華を咲かせるのではなく、自分のやりたいことをやるようになる。このような状況を生み出した決定的な存在は都市の中の公園であった。公園が本質的に散歩の為につくられ、滞在する場所ではなかったということが大きな要因である。公共の場というのが会話し、情報を交換し、何らかの意思決定を行う場から、個人として振舞う場へと変換する重要な契機が公園にあった。生活環境の改善のために導入された都市内部の公園は、期せずして公共性を転換することになったのである。現在、このような「沈黙する大衆の公共性」が歴然と見られるのは、郊外型のショッピングモールである。郊外のモールでは巨大な空間に人々が集まるが各々の興味に特化して消費活動が行われるようになる。巨大建築の中で大衆は沈黙し語らない。


建築の中では人々は議論しない。しかし大衆の意見というのがなくなったわけではない。雑誌や新聞などのメディアに議論の場所が移ったのである。メディアの発達もまた公共性の変革に加担していく。

大衆紙というものは、主として政治的動機から起こった広汎な大衆層の公衆参加を、商業的な方向へ機能変化させたことにもとづくものである。入場条件の切り下げは、教養水準の実情からいうと、さし当たっては、大衆に公共性へ参加する道をひらく手段にすぎなかった。ところがこの拡張された公共性は、「心理的安直化」の手段が商業的に固定化された消費維持の自己目的となっていくにつれて、その政治的性格を失うのである。*3

公共性が政治的性格を失い、大衆の文化消費へと変化するに連れて、「議論する大衆の公共性」は喪失されていく。


空間のなかに議論する大衆はもはや見えないが、巨大化した消費という力がメディアの中に潜むようになった。彼らに訴えかけるにはどうしたらいいか?未だに巨大建築や表現の手法として有効であろう。とはいえ、誰しもが手がけられるものではない。大きな影響を与える大きな存在を手に入れられない若手や先鋭的な非主流派たちは議論する大衆に訴えるために新たな広告を打つことを考える。住宅である。ニューヨークの近代美術館で行われた近代建築の住宅を中心とする展示を指してビアトリス・コロミーナはいう。

もしもインターナショナル・スタイル展が近代建築のための広告キャンペーンと考えられるなら、この広告は、「芸術を手にできる」公衆よりもっと大きな公衆を狙っていた。つまりデパートの公衆、中流階級、それも主に女性だ。*4

住宅という存在は建築の正統から外れた場所にあったが、モダニストが自分たちの主張を表現する場として大衆の欲望にダイレクトに切り込もうとしたのである。シェルターとしての住宅は人間にとって不可欠な存在である。誰しもが手に入れる消費の対象である。それでいて、建築家にとってみれば、小さくはあるが自分の思想を表現する場所として十分であった。大衆のための住宅を作品に加えるというのは以前の建築界にはない発想だった。建築家たちは大群集をまとめて扱う空間を用意するのではなく、自分たちの意見の広報のために、個々の人間に対して語りかけ始めた。私的な存在であったはずの住宅に真剣に向き合うことで全体の議論の流れを作ろうとしたのである。これは一種のパラドックスであった。住宅建築においては、私的領域に深くコミットすることが多くの人の共感を得ることにつながる。個別化して分解した大衆の声に一つづつ耳を傾け、批評性をもって何かを提示する場所としての住宅。そのような広告としての住宅が可能になった背景には、写真入りの建築雑誌の存在がある。コルビュジェを始めとする住宅に積極的だった建築家は建築写真に意識的であった。実際の建築を体験するという建築の受容から雑誌に掲載された写真による受容へと変化していった。そうなると、建築家は住宅を通して、自らの考えをあまねく世界に広げることができるようになったのである。


また、建築家は住宅の中で社会に対してなんらかの像を提示するために、手段として売れる住宅を作ろうとする。施主の欲望を探りだそうとし、都市の中で彼らが自由に出来る場所としての住宅を作っていく。住宅で人間の欲求と向き合った建築家はその感覚を「議論する大衆」のために作られた巨大な公共空間にさえ持ち出す。ここに来て公共性の転換は決定的になる。「議論する大衆の公共性」とは議論の末に導かれた集団全体が共有可能な目標の追求であった。一方で「沈黙する大衆の公共性」とは一人ひとりの欲求が自由に実現できることである。他人に干渉されることなく自分の望む行動ができる空間が公共空間になる。「誰のものでもない場所」ではなく「誰のものでもある場所」が公共空間なのだ。所有の観点に置き換えるならば、通時的共有が「議論する大衆の公共性」であり、一時的占有が連続する共有が「沈黙する大衆の公共性」である。さらに建築家のキャリアの早い段階が個人住宅の設計を中心とすることでこの傾向は強まり、誰でもアクセス出来る「曖昧な境界」や「開かれた空間」がすり切れるくらい使われるタームになる。

市民的公共性のモデルは公的領域と私的領域とのきびしい分離を基準にしており、そのさい、公衆として集合した私人たちの公共性は、国家を社会の要請と媒介しながらも、それ自身は私的(民間)領域に属していた。しかし公的領域と私的領域の交錯が加わるにつれてこのモデルはもう適用されえなくなる。すなわちそこには、社会学的にも法律学的にも公私のカテゴリーには包摂しきれない特殊な再政治化された社会圏が成立しているのである。*5

もはや公共性は明確に分化された領域では収まらなくなり、空間の再編が始まる。私性を十分に満足させることが公共性となる複雑な状況が進行している。







「曖昧な境界」とかを公共性の転換から考えたところが牽強付会な気もしますが、「沈黙する大衆の公共」は考えるべき問題かと思います。

*1:リチャード・セネット『公共性の喪失』晶文社 1991年 初版 p34

*2:ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』1994年第二版pp86-87

*3:同上p225

*4:ビアトリス・コロミーナ 松畑強訳『マスメディアとしての近代建築、アドルフ・ロースル・コルビュジエ鹿島出版会1996年 p136

*5:ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』1994年第二版p232